T・オースティン-スパークス
「しかし今や、あなたたちは罪から解放されて神の僕になり、聖潔に至る実を結んでいます。その終極は永遠の命です。罪の支払う報酬は死です。しかし神の無代価の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命です。」(ロマ六・二二~二三、改訂訳)
この一連の黙想で私たちが特に注目している節、すなわちローマ八・二は、いま読んだこれらの節の後に直接続きます。なぜなら、この二つの節の間に来るものは挿入だからです。
「キリスト・イエスにある命の霊の法則」
私たちは命の七重の法則の五番目の表現に来ます。命の法則は一つです。すなわち、命は一つの法則です。しかし、この命、この法則は七つの異なる方法で働きます。全き命はこの七つをすべて要求します。この七つのものがすべて一つの命を構成します。ここで分かるのは、この命を私たちが受け入れて、この命に私たちの中で自分の道を行かせ、私たちがそれに従順なら、この命はそれ自身の法則により、この七つの方法で働くということです。この七つの方法はこの命の必然的働きです。なぜなら、この命は一つの法則だからです。すでに述べたように、またよくご存じのように、ある法則が確立・受容・認識されるとき、その法則はある一定の方法で働きます。この働きは全く自発的で、まったく自然です。自動的であると言えます。ですから、命が確立されて人がそれに従う時、命は一定の方法で働きます。この神聖な命も、もしそれが私たちを治めることを許すなら、必然的かつ自然に七つの結果をもたらします。なぜなら、この七つの結果はみな命の構成要素であり、命の七重の表現だからです。結局のところ、クリスチャン生活は一つのとても単純な公理に帰着します。クリスチャンになるのにこれをすべて理解する必要はありません。しかし、人が一度クリスチャンになるなら、特定のことが起き始めます。そして、何が起きているのかを理解することには、とても大きな価値があります。なぜなら、それは神がなさっていること、神が求めておられるものを理解することだからです。しかし、命の霊が私たちの中で差し止められずに妨げなく働くなら、私たちが主と共に進み続けるなら、こうしたことが起きます。
信仰の実である子たる身分
私たちは命のこの自発的表現の四つを扱って来ました。今、五番目すなわちイサクにやって来ます。新約聖書の他の一つか二つの箇所だけ見てもらいたいと思います。ローマ八章に戻って二節と一四節を結びつけましょう。
「キリスト・イエスにある命の霊の法則」
「神の御霊に導かれている者たちはみな、神の息子だからです。なぜなら、あなたたちは再び恐れの奴隷とする霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたからです。この御霊によって、私たちはアバ、父よ、と叫びます。御霊ご自身、私たちの霊と共に、私たちが神の子供であることを証しして下さいます。子供であるなら、相続人でもあります。神の相続人であり、キリストと共同の相続人です。私たちがキリストと共に苦しむなら、共に栄光を受けるようにもなります。」(ロマ八・一四~一七)
つながりは最初から最後まで御霊であることがわかります。命の霊、御霊によって導かれること、子とする御霊、私たちの霊と共に証しする御霊です。しかし、みな一つの特別なことと関係があります。間もなくそれを見ることにします。
ただちにガラテヤ人への手紙四・五~七に向かうことにしましょう。
「それは、律法の下にある者たちを贖うため、私たちが子たる身分の霊を受けるためでした。このように、あなたたちは息子なのですから、神はあなたたちの心の中に、『アバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を送って下さったのです。したがって、あなたたちはもはや僕ではなく、息子です。息子である以上、キリストを通して神の相続人です。」
「私たちが子たる身分の霊を受けるためでした」は、ローマ八章の節「子とする御霊」をほぼそのまま繰り返したものです。
「また子たちに対するように、あなたたちに語られたこの勧めの言葉をあなたたちは忘れています。『私の子よ、主の訓練を軽んじてはいけません。主に責められる時、弱り果ててはなりません。主は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子を鞭打たれるからです』。あなたたちは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたたちを息子として取り扱っておられるのです。いったい、父に訓練されない息子があるでしょうか?(中略)その上、肉親の父は私たちを正すのに、なお彼を敬うとすれば、なおさら、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか?」(ヘブ一二・五~七、九)。
命やその働きと関わりを持つことは難しくありません。ここでは、命が子たる身分の道筋に沿って働くことがわかります。これらの節はみな、命との関係で子たる身分を見せています。また、命の霊としての御霊を見せています。旧約聖書の型及び絵図であるイサク、この型である人物たちの五番目によって、私たちはこれに導かれます。
イサクに関する素晴らしい御言葉が創世記一七・一九に見つかります。
「そして神は言われた。『あなたの妻サラはあなたに息子を産むでしょう。あなたはその名をイサクと名づけなさい。私は彼と契約を立てて、後の子孫のために永遠の契約としよう』。」
神はここで、イサクが神の経綸の中で何を表しているのかという問題に、はっきりと一度限り永遠に決着をつけておられます。私たちの前の黙想で、アブラハムによって示されている命の四番目の表現について述べた時、私たちは信仰を通して働く命、命の法則の一つの面である信仰を見ました。
今、イサクに来ると、信仰の実である子たる身分があります。信仰はそれ自身が目的ではありません。信仰は働いて子たる身分に至ります。なぜなら、頂点に達したアブラハムの信仰によって、イサクは死の届かないところ、失うおそれのないところ、時間の及ばないところ、すなわち復活の立場の上に安全にもたらされたからです。さて、この子たる身分を取り上げてそれを見、その性質、性格を調べることにします。ここでは、命が子たる身分という観点から私たちにもたらされるからです。
神の息子たちは、全く神が産みだしたものである
イサクについて考える時にまずわかるのは次のことです――これはとても明確ではっきりしています。聖霊はこの事実を常に視野に保つことに真剣に取り組んでおられるように思われます。これは旧約聖書の物語の中で明らかにされており、新約聖書の中で二回以上示されて強調されています――すなわち、天然の立場の上ではイサクが生まれることは不可能だった、ということです。ああ、神はこれを確立するためにどれほど専念されたことか!イサクの誕生を告げる知らせ自体も、約束の実現に向けて天然は何もできない時になされました。しかしその後、この知らせと約束がなされた後ですら、神は立ち去ってこの件を保留したままにされました。まるで、かなりの期間の間、時が過ぎ、日が経つにつれて、この件全体に関して人はますます望みを持てなくなるかのようでした。ですから、遂にイサクが生まれた時、彼は天然的成果の領域全体をもってしても説明のつかないものでした。彼はまさに完全かつ徹底的に神からのものだったのです。彼は天然の実ではありませんでした。これが最初の要点です。さて、これをどう言い表し、どう称するかはあなたの自由です。これをクリスチャンになること、神の子供になること、救われることと称することもできます。どう称するにせよ、それに呼応するこの現実は天然の力をまったく超越しています。いかなる力を用いたとしても、神ご自身の外側で神の子供になることはできません。これがどれほど初歩的かは分かっています。しかし、それでもおそらく述べる必要があります。ここでは私たちに出来る働きは何もありません。私たちが差し出せる成果は何もありません。私たちがどれほど努力して力を注ぎ込んだとしても、これを生じさせることは全く不可能です。奮闘し、努力し、格闘し、叫んでも、これを生じさせることはできません。天然の何物もこれを生じさせることはできません。肉から生まれるものは肉です。聖書の中でこれが意味するのは、肉体から生まれるものは肉である、ということではありません。肉はそれ以上のものです。ここでの肉の意味は天然の能力です。ですから、理屈、議論、談話、説得、甘言、強制によって、一人の魂を神の子供にすることは決してできません。議論を尽くし、知的矛盾をことごとく取り除き、遠慮や冷淡さという壁をすべて打ち倒したとしても、そして、議論や懇願によって人の意志を制圧して、そのような説得、感情、影響の下で、ある人が一歩踏み出して、クリスチャンになることを決意したとしても、そのような人はクリスチャンになることに前より近づいたわけでは決してないかもしれません。こうした壁がすべて除かれたとしてもそうです。これが道ではありません。これは神から出ることであり、聖霊によって生まれる以外、何物も子たる身分を生み出せません。この事実を悟っていないせいで、人々の多くが誤った立場にあります。彼らはクリスチャンという名を帯びていますが、それは彼らがある条項に同意したからです。感情に促されたからであり、何らかの説得や影響の下で行った決定のためです。
これはカインについて述べたことの帰結にほかなりません。カインは礼拝者でしたが殺人を犯しました。彼の魂の命は自分自身の最上の働き、最上の成果、何でも最上のものを携えて神のもとに行きました。それが通用すると信じていたのです。しかし、決して通用しませんでした。人々の多くは同じようにこの基礎に基づいて働いています。そして、自分は受け入れられており、神の子供である、と思っています。ああ、力強く真実を悟らせることが必要です。しかし、これはなんと酷いことか!こうした見せかけの回心がすべて偽物であって実際ではないことが暴露されたら!私たちは子たる身分の意義と性質を真に理解しなければなりません。それが何なのかを知らなければなりません。最初に、子たる身分は天然の実ではない、というこの消極面を確認する必要があります。神は子たる身分を天然の力では産み出せないところに置かれました。イサクを全く天然の力の及ばないところに置かれたようにです。全く神からであり、ただ神からである、というこの点から始める必要があります。
では、子たる身分とは何でしょう?人の霊は神の種の器となります。神ご自身からの何かをその中に身ごもる器となります。そして、その何かがあるために、その身ごもった人は神の宇宙の他の何者とも異なる種類の存在に成ります。あなたには神秘的な何かがあるので、あなたという人は隠された神秘です。あなたの存在のまさに中心に何かがあるのです。それがあるおかげで、あなたは他のどの種の被造物とも異なっています。神は人の霊の中に御子を産み出されました。神の子供の中には、神がご自身に属するものとして目をとめられるものがあります。それは神から出たものであり、神の一部です。神はそれを大切な子供としてご覧になります。
命の霊の法則は指導的法則である
さて、これは神の子供全員に関する深遠な真理です。これは神にとって、また私たちにとって、すべてを可能にします。すべてが、これが私たちの人霊の中に宿ることに関係しています。子たる身分が始まって、私たちの存在の中心にもたらされました。これが真実であるとき、これが実際であるとき、「御霊ご自身、私たちの霊と共に、私たちが神の子供であることを証しして下さいます」。私たちに神の子たる身分があることを証しして下さいます。これは命の自然な表れであり、それは生き生きとした現実になります。あなたたちの大部分はそれを実証できる、と私は期待します。すなわち、たった一つの事実や証しとしてではなく、多くの証拠によって、あなたたちはそれを実証できる、ということです。あなたの行動の中に命の証拠と死の証拠があります。あなたの会話の中に命と死の証拠があります。あなたが述べること、あなたの思い、あなたの判断、あなたの行い、あなたの道の中に、命か死の証拠があります。それは制御する法則であり、この命の法則は子たる身分という結果になります。
これは何を意味するのでしょう?結局のところ、この秘訣を一度つかむなら、クリスチャン生活は何と単純になることでしょう。愛する人よ、これは神の御子であるイエスがその生活を私たちの中で再び生きることを意味します。地上でのイエスを見て下さい。そうすれば、彼が仰ることや仰らないこと、行われることや行われないことがわかります。というのは、彼が仰らないことや行われないことには、彼が仰ることや行われることと同じくらい意義があるからです。彼がある場所に行くのがいつなのか、また、ある場所に行かないのがいつなのかがわかります。私たちは神聖な統治の下にある生活を目にします。言葉、歩み、行動が見事に統治されているのです。そして、彼はその生活を私たちの中で再び生きておられます。私たちはその完全な表現からかけはなれています。なぜなら私たちは、第一に、御霊が私たちの心の中で語っておられることに対して十分敏感ではなく、またそれを十分理解してもいないからです。私たちは訓練されたよく聞こえる耳を持っていません。他の音ばかり聞いているからです。私たちの応答や従順の速さは十分ではありません。それゆえ、キリストの完全な表現がないのです。しかしそれにもかかわらず、この基本的事実は残ります。私たちはそれを知っています。それは教育的なものであり、指導的なものです。私たちはみなそれを知っています。ああ、この精査の働きに関して私たちには何という経歴があることか!先に進むにつれてこの経験はますます進んだものになります。そして、私たちはますます精査されることになります。しばらくのあいだ手つかずのように思われたもの――それに神が同意しておられたからではなく、神は私たちを導き続けておられ、一度にすべてを取り扱うことができなかったからです――を、今や神はご覧になります。そして、私たちはかつてできたことがもはやできなくなります。
説明してもよろしいでしょうか?私はよく覚えているのですが、初期の説教では、私は自分の要点を説明するために世俗の文献を大量に引用したものでした。詩人や他の多くの世俗の著者を持ち出したものでした――ああ、私の要点を理解してもらうための素晴らしい実例だったのです!主はしばらくの間それを放置されましたが、説教の中でブラウニングの一節を引用しようとすると、すべてがぺしゃんこになってしまう時が、私の霊的生活の中に訪れました。私の説教は死んでしまい、まるで説教を再びやり直さなければならないかのようでした。しかし、私にはできませんでした。私は教訓を学びました。よろしい、二度とそんなことは御免です!時々後戻りしそうになることもありましたが、内側にこの同じ沈むような恐ろしい感覚があり、自分が死に触れたことがわかりました。先の戦争に関してもこれがどれほどそうだったのかを私は覚えています。あの戦争中、私たちの中にはその状況の真っ只中にいた人もいました。私たちは多くのことを見ました。私たちは状況をその場で対処しなければなりませんでした。さて、家に戻って来た後、私は時々この戦争の事例を説教の中で引用して要点を理解してもらおうとしました。しかし、神がそこにおられないことを私は見いだしました。そして、神の事柄に関連してあの戦争に触れるたびに、私はあの同じ恐ろしい死の感覚を内側に感じました。それで、「神は私があの戦争を天的な事柄に混ぜるのを望んでおられず、私はそれをそっとしておかなければならない」という明確な結論に達しました。私はそれを去らせなければなりませんでした。それは命の法則の働きでした。「あなたはそれをしてはならない。そんなことには言及しないのが一番良い」と私に言った人は誰もいませんでした。そうではなく、私の内におられる命の御霊がそれに反対して証しし、事実上私に、「それは死です。もし命を望むのなら、もし自分のメッセージを命の中に保ちたいのなら、もし神の御旨に達したいのなら、そのようなことはすべて放っておかなければなりません。それは決して神から生じたものではありません。神から生じたものだけが神の目的を成就して、神に戻ることができます。ですから、他のものをすべて除き去りなさい」と仰せられたのです。言わば、この御霊の法則は指導的法則なのです。
私たちがこの命を得て、その命に自分の道を行くことを許しさえするなら、私たちは神の全き御旨に到達するでしょう。それは抽象的なものではなく、私たちの内に住んでおられる神のパースンです。命であるキリストが内側から、命の御霊である聖霊によって治めておられるのです。こういうわけで、この命の働き、過程、発動がいかに全く異なるものなのかがわかります。
イサクとイシマエル
さて、イサクに来ることにします。アブラハムが主の御旨の成就を助けようとしたことは覚えておられるでしょう。いかなる天然の基礎によっても神のこの御旨は不可能であることを彼は悟りました。そして、彼の信仰は萎みました。私たちはイシマエルの痛ましい物語を知っています――アブラハムは天然の道筋に沿って神を助け、神の御旨を成就しようとしました。イシマエルが生まれました。彼は何者でしょう?天然の実です。イサクすなわち神の実が生まれました。この二者が一つの家の中にいました。その結果、二つのことが生じました。しかし、さしあたって一方は放っておいて、他方に進むことにします。
主がアブラハムに「女奴隷とその息子を追い出しなさい。この女奴隷の息子は自由の女の息子と共に相続人になってはならないからです」という御言葉を語られる時がやってきました。これを理解されたでしょうか?肉から生まれるものは、御霊から生まれるものと共に相続者になることはできません。御霊から生まれるものは、肉にはあずかれない神聖な嗣業を得ます。神に属するこのものはそれとは全く異なっており、それとその実体を分かち合うことはできません。一方は去らなければなりません。
さて、もう一方に戻ることにします。神が命じられた通りに行わないなら、何が起きるでしょう?イシマエルがイサクを追い出します。イシマエルはイサクを笑った、イサクを嘲った、イサクの生活を惨めなものにしようとした、と御言葉は述べているからです。その目的はどれも、イサクを追い出してその地位を得ることでした。肉は常にこのようなものです。御霊に逆らいます。天然の実に何らかの地位を与えるなら、それはたちまち神に属するものを追い出します。この二者は共に住むことはできません。共に相続人となることはできません。この天然の命は霊のものを常に笑う、というのは全くその通りです。霊のものは常に全く異なったものだからです。これに直ちにしたがっていれば良かったのに、と私は思います。
再び主イエスを見ることにしましょう。主イエスには到底できないことがたくさんありました。つまり、神との関係のゆえに、また、神への信頼のゆえにできなかった、ということです。彼ご自身そう述べておられます。「子は自分自身からは何もすることができません」。「私が話す言葉は自分自身から語っているのではありません」。主イエスはすべてを御父から引き出さなければなりませんでした。「父が行われることは何でも、子も行います」。しかし、それ以外のことは何も行いません。ですから、言葉を発する前に、彼は御父を待ち望まなければなりませんでした。働きをする前に、御父を待ち望まなければなりませんでした。ある特定の場所に行く前に、御父を待ち望まなければなりませんでした。「あなたたちは祭に上って行きなさい。私はこの祭には上って行きません……」。これは、その時彼は縛られていたということです。自分を解放して、その祭に上って行くように導く証しを彼は得ていませんでした。それでも御言葉はこう述べています、「兄弟たちが祭に上って行った時、彼も公にではなく隠れて上った」。あの言葉は、同行を欲しない人々を避けるための言い訳、詭弁だったのでしょうか?彼らと一緒に行くのを欲しないで、一人で行きたかったのでしょうか?そのように言うことはできません。それよりも聖い理由を見つけなければなりません。その理由はこうです。すなわち、行くことを御父が望んでおられる、という確証を彼はまだ得ておらず、行くことは御父の御旨ではない、とその時はともかく結論せざるをえなかったのです。しかし、彼らが上って行った時、確証が来て、彼は霊の中で解放されました。子たる身分の霊が、「行っても構いません。道に障害物はなく、上って行くべきです」と証しされました。それで彼は行きました。要点はこうです。すなわち、主イエスは御父に対する関係によって、その自発的依存によって、すべては神から発しなければならず自分からのものは何もあってはならないという命の法則によって、まったく制限されていたのです。これが法則です。
この水準に基づいて生きようとするとき、天然の人が笑って嘲らないかどうか見てみなさい。彼らがどれほどあなたに疑問を呈するのかに注意を払いなさい。「あなたは何をするつもりなのか?」「わかりません!」「あなたはどこに行くのか?」「わかりません!よろしいと主が私に語られる時、主が私に証しされる時、私が主によって解放される時、私は行きます」。この霊的な言葉を好きなように言い換えても構いません。天然の人はこれについて何と言うでしょう?あなたを笑って、嘲ります。これは外面的に正しいだけでなく、内面的にも正しいことがわかります。自分自身のことを愚か者と呼びそうになることや、「自分はなぜこれをしないのか?」と自問することがしょっちゅうあります。そして、とどまらなければなりません――「自分はなぜこれをしないのでしょう?」「できないからです」「なぜできないのでしょう?自分でやればいいでしょう」「主はそれをしておられません。主がそれをしておられるようには感じません」。これは子たる身分の言葉であり意識です。これが命の道です。
ですから、イシマエルはイサクを笑います。これは天然の命が霊の命を笑い、絶えず優位に立って神に属するものを追い出そうとするのと同じです。これは子たる身分の働きです。もちろん、もしあなたが子ではないなら、あなたはこれについて何も知りません。しかしもし子なら、私が述べていることを少しは知っているでしょう。あなたは自分が子であるかどうか直ちに告げることができます。この言葉は子たちにとって奇妙な言葉ではありません。これは、いずれにせよある程度まで、完全に理にかなった言葉です。
子たる身分は主イエスのパースンの中に完全に集約されています。彼の生涯は子たる身分、その霊的意義の展覧、注解です。次に、この子たる身分が人である主イエスによって、彼がまとわれた人性において完成された時、神の御子の霊が到来して、新生した神の子供の中に住み、神の御子のこの完全な子たる身分を生かし出し始めます。「神はあなたたちの心の中に、アバ、父よ、と叫ぶ御子の霊を送って下さいました」。もし子たる身分の霊が私たちの心の中で治めているなら、自分に出来ることと出来ないこと、どのように話すべきでありどのように話してはならないかがわかるでしょう。愛する人よ、私を信じて下さい、もし子たる身分の御霊が私たちの心の中で治めておられるなら、私たちの振る舞いや私たちの歩みと神の御言葉に書かれていることとの間に、決して微塵の矛盾もないでしょう。神の御言葉に書かれていることが自分の生活の中で自然に表現されるようになるのを、私たちは見いだすでしょう。まず神の御言葉を受け入れて、それを外面的に適用することによってそれを守る、というわけではありません。内住の御霊によって私たちは神の御子のかたちに同形化されます。これは神が与えて下さった啓示――パースンによる啓示や御言葉による啓示――に同形化されることをまさに意味します。啓示に矛盾はないからです。子たる身分はそれを要求します。もし私たちの振るまい、歩み、道と、神の御言葉との間に矛盾があるなら、何かが起きてこの命を傷つけ、子たる身分の御霊を妨げているのです。どこかで道から外れてしまったのです。私たちの道は行き止まりの道であり、生ける道ではありません。それは自分には正しく思われますが、「人には正しく思われても、その最後は死の道である道がある」のです。ああ、子たる身分の霊は照らして啓発する方であり、私たちを命の道の中に保って下さいます。
明け渡しは子たる身分のしるしである――小羊の御霊
イサクの生涯の中で際立っているあの出来事に触れて終わることにします。それは、彼の父であるアブラハムが、神の命令によって、彼を主への供え物としてささげるために、モリヤ山への旅に連れて行った時のことです。これはイサクが象徴していることの最も美しい啓示の一つだと思います。「お父さん(中略)火と木を見て下さい。でも、燔祭の小羊はどこでしょう?」「わが子よ、神ご自身が燔祭の小羊を備えて下さるのです」。神はイサクに目をかけておられました。イサクは神に選ばれた者でした。イサクはこのことで神を満足させることになっていました。目的たるものは神のため、神の喜びのため、神の満足のためのものでした。イサクはこの路線の中にあります。自分が供え物である事実をイサクが知る瞬間がやってきます。おそらく突然のことだったかもしれませんし、道中のことだったかもしれません。アブラハムは祭壇に近づきつつ、「わが子よ、主はあなたを供え物にされたのです」と彼に告げます。それから、イサクが縛られる瞬間がやって来ます。この時、イサクは小さくて無力な子供だった、と誰も思わないで下さい。彼は成長した若者でした。彼の父親はとても年老いた人でした。もしイサクが反抗したなら、当然のことながら、アブラハムには何も出来なかったでしょう。イサクはたやすく父親に反抗できたでしょう。しかし、そのような兆しや示唆は何もありません。この若者は、若い力があったのに、縛られるがままでした。そして、祭壇の上に横たわって、刀が振り上げられて自分に突き刺さりそうになるのを受け入れました。屠られることを受け入れました。彼の意志に関する限り、彼はこれを受け入れました。霊においては、これは成就されて終わりを迎えました。何の抵抗もありませんでした。ですから、こう言わなければなりません。イサクは完全な従順によって神の喜びのために自らをささげた実例であることがわかります。これが子たる身分です。
愛する人よ、ここに魂や魂の命の素晴らしい従順、魂の命、自己の命の、神の御旨への素晴らしい従順が表されています。「私から命を奪う人は誰もいません。私が自分から命を捨てるのです」と言われた方に耳を傾けて下さい。そして、このように語られた方は弟子たちの方を向いて、「自分の魂の命を救う者はそれを失い、私のために自分の魂の命を失う者はそれを見いだします」と言われました。これがイサクです。これが子たる身分です。ああ、子たる身分、これは何という明け渡し、何という従順でしょう!何と小羊のようであることでしょう!「神ご自身が小羊を備えて下さるのです」。
子たる身分が自分の中に増し加わっているのかどうか、神の御子があなたの中で成長しておられるのかどうか、知りたいでしょうか?あなたの明け渡し、憤り・抵抗・自己の意志の減少、試練における苦々しさの減少が、その証拠です。自己主張、自己利益、自己本位、自己義認、自己憐憫といった、あらゆる形の自己の表れが減ること、このようなものがことごとく減ることが子たる身分の証拠です。たとえ試練が神ご自身の子供たち、アブラハムを通してやって来たとしても、神の御手に服することが、子たる身分の証拠です。あなたは神の敵ではない者の手によって屠られることになるかもしれません。逆境や試練の下にあるとき、屠られ、断ち切られつつあるとき、刀の下にあるとき、不平を言ったり、反抗したり、理屈をこねたりせずに、神の御手に服すること、これが子たる身分です。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に責められる時、弱り果ててはならない」(ヘブ一二・五)。「神はあなたを息子として扱っておられるのです」。「私たちは私たちの霊の父に服さないで」――そして死ぬのでしょうか?いいえ、決して!それは神の御旨ではありません。神の御旨は「生きる」ことです!ああ、神の訓練の御手の下にあるとき、生き延びるとは思いもよりません。確かにこれでおしまいです!いいえ!――「生きる」のです!神がこれを見守って下さいます。これが子たる身分の道です。これが命の道です。さしあたってこれで私は満足することにします。命は子たる身分の路線に沿って自然に働くのであり、子たる身分はそういうものなのです。
ただで受けたものはただで与えるべきであり、営利目的で販売してはならない、また、自分のメッセージは一字一句、そのまま転載して欲しいというセオドア・オースティン-スパークスの希望に基づいて、これらの著作物を他の人たちと共有する場合は、著者の考えを尊重して、必ず無償で配布していただき、内容を変更することなく、いっさい料金を受け取ることをせず、また、必ずこの声明も含めてくださるようお願いします。