T・オースティン-スパークス
聖書朗読:黙一九・一~一〇
小羊に従う者たちというこの問題の考察を進める時、私たちはこの道の頂点、小羊の道の頂点――十字架の頂点――に関係する部分に達します。しかしここで、状況全体を考慮して視野を広げることが必要であり、また助けになります。次のことは良く知られていて、しばしば言及される事実です。すなわち、始まりの書である創世記には、それ以降神の御言葉の中に見い出されるすべてのものに関する最初の暗示が含まれている、という事実です。私たちは創世記以外のすべての聖書の中に見い出されるものに関して過去に遡って追跡し、創世記の中の何らかの萌芽に至ることができます。つまり、聖書は総じて、この書の中に見い出されるすべての始まりを、開拓、展開、発展させているのです。究極的完成の書である黙示録は霊的な方法で、それをすべて取り上げて、それ自身の内に集約させます。地的・時間的・物質的方法で、予型的・象徴的・預言的方法で創世記の中にあるものは、霊的な究極的完成形で黙示録の中にあります。ですから、黙示録の解釈法を知ることはとても重要です。いわゆる聖書霊解に対する反対の姿勢を私はよく知っていますが、それにもかかわらず私は大胆に言います。黙示録は、そのすべてではないにせよ、ほとんどすべてを霊的に解釈するべきであり、そうしない限り、あなたは完全に混乱してしまうでしょう。確かに、あなたは果てしなく続く無理難題にかかりっきりになるでしょう。これは霊的な方法による万物の究極的完成の書です。
創世記と共に始まる旧約聖書の中には何が見い出されるでしょう?二つの王国――神の王国と神に敵対する王国――の痕跡が現れるのを見い出します。神の王国の発展を見る時、この王国がある明確な計画をもって発展していることがわかります。そして、最初の五書の終わりに達する前に、それがあるとても明確な形を取るのを見い出します。神の王国の一つの光景、一つの小宇宙が示されます――確かに、不完全ではあります。それは予型にすぎず、型や絵図にすぎないからです。しかし、その輪郭は明らかにわかります。
一つの国が選び出されます。その国には明確な境界線があり、また内側の境界線によっても分かれています。この国はすべて、諸部族に対する嗣業として分配されています。そしてまさにその中心に――文字通りの地理的中心ではありませんが――その全体構想の核心・中心として一つの都があります。そして、そこには神とまみえる一つの場所があります。この王国のこれらの部分の幾つかは、主権的な神の定めにより、他の部分よりもこの核心の近くにあります。この中心に近い部分もあれば、遠い部分もあります。しかし、この中心――神がおられる場所――がすべてを支配します。そして次に、この内なる特別な王国の周囲に、多くの他の王国や国があります。それらは、内側のその場所で起きていることから多くのことを学びつつあり、とても多くのものを得つつあります――それはそれらの姿勢に応じてであり、もちろん、良い姿勢であれ悪い姿勢であれそうです。つまり、この神の王国はすべての王国に影響を及ぼすのです。このもう一方の霊的な王国は、地上の王国であり、混乱した世と人類の状態の中に置かれていて、はっきりと目に見えるものでもあるので、善と悪の両方が表されます。つまり、諸国民は善と悪の両方に関して、光の中を歩むその歩みから影響を受けるのです。
しかし、これは一つの区分にすぎません。聖書の次の部分に移って、いわゆる歴史的区分――この区分で王職が祭司職を通して導入されます――に入ると、状況が別の形を取り始め、別の領域の中に入り込むのを見い出します。いっそう高い水準に移ります。地から離れていき、天に近づきます。そして、王的・預言的動きのあの結合が終わる時、あるいは、預言者エゼキエルの書でその終わりを目にする時、あなたは天の国を見始めます。エゼキエルの預言の最後は、国全体が嗣業として再形成されることであり、今や新たな方法ですべてを支配するのは宮です。それは理想の宮であり、かつてなかったほどのものです。また、エゼキエルの時代以降なかったほどのものです。それは天的な宮であり、霊的な宮です。天的な国の天的な都の中にある天的な宮です。なぜなら、事物は地から離れていき、地的なものは放棄されたからです。今や、それは天です。あなたはエゼキエルのこれらの最後の諸章を再び読んで、次の二つの点に注意しなければなりません――すなわち、王国の形成及び宮と都の設置と、次に周囲の諸国民との関係です。これを述べるだけにします――それは今取り組むにはあまりにも大きな込み入った問題です。
黙示録に来ると、あなたはまさにこの神の王国全体の霊的側面の中に入ります。黙示録の霊的解釈に関して私が指摘したいのは次の通りです。第一に、神の王国はとても大きな統治圏ですが、多くの領域に分かれていることを、あなたは理解しなければなりません。黙示録の様々な箇所で御座が支配しているのをあなたは見い出します。そこには地があり、天がありますが、地と天に関して、それが双対であるかのように語る人もいます。そうではありません。それは多重性なのです。諸天と諸天の天があります。パウロは「私は第三の天に引き上げられた」(二コリ一二・二)と言いました。ですから、天には様々な領域、部門、区分があります――上層、低層、おそらく中層があります。
次に、この注目すべき点に来ます。贖われた者たちも、別々の場所の区域に分かれているのです。主イエスは「私の父の家には多くの住まいがあります」(ヨハ一四・二)と仰せられました。(「邸宅」という言葉を取り除いて下さい。そこには通りや邸宅はありません――いずれにせよ、それは彼が言わんとされたことではありません。)「私の父の家には多くの住まいがあります」。第一の天、第二の天、第三の天、諸天の天があります。そして、人々は御座に関して相応の場所に置かれます。まさに御座の内にこの群れがいます。御座の周りにはあの群れがいます。別の群れや、また別の群れもいます。諸国民、贖われた諸国民は外周にあって、諸々の影響を受けます。今や善と悪の影響を受けるのではなく、中心にあるものから良い影響を受けます。諸天の王国は複数であって単数ではありません。
霊的に神に最も近い一団
さて、これは一体どうしてなのかと、あなたは疑問に思っておられるでしょう。それは次の理由によります。すなわち、私たちが今取り組んでいるのは、一四章の十四万四千人によって表されている神の最も完全な御旨だからです。神の最も完全な御旨は、ご自身の民をできるだけご自身に近づけること、霊的にご自身に最も近づけることです。地位、性向、特徴、嗣業というこの問題は、霊的な問題です。あなたの地理的観念や思いを退けて下さい。天がどこにあるのか決定しようとして悩む必要はありません。たとえ天がどこにあるのかを見い出そうとして残りの人生を費やしたとしても、答えは得られないにちがいありません。惑星のどれが天かを私たちに告げようとした人々もいましたが、彼らが正しいのかどうかを私たちに告げに来た人は誰もいません。しかし、これは霊的親密さの問題であることがわかります。私たちがどこにいたとしても、主のとても恵み深い訪れにより、自分の現在の場所を離れるまでもなく、自分は天の中にあると気づくようになることは全く可能であり、全く栄光なことに可能です。私たちは言います――「これは実に素晴らしいです。これよりも輝かしく、幸いで、完全なものはありえません」。おそらく、あなたはこれを一度も経験したことがないでしょう。これは可能です!死の王国に属するあの別の包囲、化身、衝撃から免れて――地理的場所について悩む必要はありません――この領域やこれらの環境の中でも、神の栄光の前味わいをすることは全く可能なのです。
それは究極的にはどこかに行く問題ではなく、何かになる問題です。私たちは天に行かないわけではありません。しかし、主として第一に、それは字義的かつ実際的などこかの場所の問題ではありません。天を造り上げるのは、ある状態の中にあることです。諸天の天、至高の場所、最も完全な場所は、神が生活の中で最も完全に満足される場所です。誰かの生活の中で、神が神として最高に満足しておられるのを知ることに優るものは何もありません。神が御心を定めてきたものを獲得されたことを知ることに優るものは何もありません。あなたに言いますが、この地上の道の間ずっと、これはある程度試されるおそれがあります。あなたも私も、ある事柄について主なる神に彼の地位や道を得ていただくことに困難を覚えたことがあるでしょうか。それは大きな代価を要する事柄、私たちにとってとても大切な事柄、私たちがとても大事に握っている事柄であるため、私たちはそれを堅く固持しようとしますし、それが無ければ熟慮するのが難しいほどです。その後、多くの戦い、争い、苦難、辛苦の末に、私たちは主のもとに辿り着き、その事柄に関して切り抜けます。すると、素晴らしい平安、喜び、安息、主を感じる素晴らしい感覚が訪れます。それは栄光の接触です。神がご自身の地位を獲得されました。そして、神がそれを獲得される時、それは神がそれを獲得される心においては栄光です。ささやかな方法でしか今はそれを証明できません。しかし、もはや戦ったり、邪魔したり、葛藤したり、疑問を抱いたりせずに、これ――その事柄は過ぎ去って、神はご自身の完全で決定的な究極的目標に到達されました――を完全・決定的・絶対的なものにしようではありませんか。その後、この人々がここで歌ったようにあなたも歌います――この十四万四千人は、使徒には多くの水の音のように聞こえた声で歌いました。それは民の中で絶対的地位を得ておられる主の栄光です。これがその霊的解釈です。
ですから今から後、御座の周りでとても多くの人々が歌っている問題に関して、十四万四千人という数は忘れて下さい。「これはそのようにはならない」と言っているのではなく、「大事なのはその意味である」ということです。永遠にわたって、私たちが事の核心にどれだけ近づいたのかに応じて、主も相応の満足を得られます。つまり、それは十字架がその目的を達成した度合いに応じてであり、あるいは別の絵図を用いると、私たちが「小羊の行く所へはどこへでも従って行く」その度合いに応じてです。別の言い方をすると、これは小羊が私たちの性質、私たちの心の中で勝利されるその度合いに応じてです。永遠にわたってこれが、私たちが事の中心にどれだけ近づいたかの尺度であり、永遠の栄光の尺度です。なぜなら、それは神がどの程度満足しておられるのかを測る尺度だからです。
黙示録の霊的解釈
補足として、この霊的解釈の問題に触れても構わないでしょうか。あなたはこの本を読み通して自問しなければなりません。私は、いささか懐疑的な人間として、始終数々の困難に出会いました。私は小羊が戦って勝利するのを目にします。また、聖徒たちが彼と共に戦って勝利するのを目にします。「これは何を意味するのか?」と私は何度も問いました。これに関するあなたの解釈はどうだろうと、私は疑問に思います。これらの事柄に関するドレの絵のような聖書解釈でしょうか?一つの絵を見ると、キリストは文字通りその手に剣を持って、文字通り自ら来臨し、その後ろには剣を帯びた聖徒の全軍勢がいます。そして、彼らは文字通り屠り、滅ぼし、この地上の至る所で血を流します。小羊の戦いについて読む時、これがあなたの解釈でしょうか?教会の初期の時代、彼はそうされたでしょうか?彼は征服されたでしょうか?彼と地上における彼の証しを滅ぼそうとしたローマ帝国を征服されたでしょうか?彼は抜き身の剣と御使いたちと共に文字通り天から出て来て、地上で血を流されたでしょうか?彼はそのようなことをされたでしょうか?
彼はそのようなことをかつてされたことがあったでしょうか?彼は諸世紀の間ずっと戦ってこられました。小羊に逆らって頭を上げた諸民族は哀れな末路を辿りました。今日、意図的に小羊に逆らって頭を上げる諸国民も、哀れな末路を辿ることになります。この問題がどうなるのかについて、大きな赤い龍の最後がどうなるのかについて、決して疑ってはなりません。(大きな赤い龍――さて、この句、この言葉には何らかの意味があります。)決して疑ってはなりません。「私は私の王を私の聖なるシオンの山の上に立てた」。「天に座しておられる方は笑う。主は彼らを嘲られる」(詩二・六、四)。これが小羊の立場です。これはずっとそうでした。ネブカデネザルの時代以降の諸国民や諸王国の霊的歴史を読むことができたなら、私たちは小羊の諸々の戦いを見たにちがいありません。目には見えませんが、何かが力強く働いて滅びへと至らせるのが分かったにちがいありません。ある霊的な力が働いています。そして、黙示録のこれらの戦いは霊的戦いです。この過程は加速するかもしれませんし、これらの敵対勢力の滅びにより突然の出来事が起きるかもしれませんが、あなたの見る限り、これが常にその理由であることがわかるでしょう。「様々な理由でそれが生じた」とあなたは言うかもしれません。しかし、あなたはこの究極的理由に達しなければなりません。この究極的理由に達する時、それは小羊の戦いにあることがわかります。私が何を言っているのかわかるでしょう。この書を霊的に見ることがとても重要です。
神の永遠の御旨に関して勝利すること
そこで、私たちはここで、霊的立場に基づく諸々の違いや区別というこの問題に導かれます。私が述べたいのは一般的性格のものではありませんし、より広範に及ぶ性質のものでもありません。黙示録に記されている事柄は、新約聖書にとって目新しいものではありません。それは実際には、新しい体制では全くありません。前に指摘しましたが、この書の冒頭を見ると、アジアにある七つの教会に対するメッセージがあります。復活した主が、僕の使徒パウロによって起こされた諸教会に語っておられます。パウロはアジアで、これらの教会を直接的・間接的に生み出すために用いられました。そしてパウロを通して、神の永遠の御旨に関する完全な啓示がアジアの諸教会に与えられました。エペソを見て下さい。そして、エペソ人への手紙はエペソ人だけに対するものではなく、エペソだけでなくラオデキアに対する回覧書簡だったことを思い出して下さい。神の永遠の御旨に関する完全な啓示の満ち満ちた豊かさが、これらの教会に与えられました。そして次に、復活した主がこれらの教会に戻って来て、それらを裁かれました――何のためでしょう?
それは、永遠の御旨の完全な啓示という基礎に基づいて彼らを取り扱うためです。主の御旨に届かないものがたくさんあります。そして、主は良い点をすべて称賛する一方で――悪い点を大いに非難しなければなりません。しかし、主は良い点を称賛されます――事実上彼は言われます、「しかし、それは私があなたに啓示したすべてではありませんし、これは私があなたに示したすべてではありません。私は私の永遠の御旨を完全に見せました――あなたの手の中にある数々の手紙を読みなさい。今や裁きの時です!あなたは完全かつ徹底的に悪く、腐敗しているわけではありませんし、美点の徴に全く欠けているわけでもありません。あなたには大いに賞賛すべき点がないわけでもありません――しかし、あなたに与えられたこの完全な啓示についてはどうでしょう?これが核心であり、これがこの問題に決定を下すのです」。「勝利を得る者……」。彼は罪、欠点、失敗、弱さに対して勝利を得るだけでなく、完全な御旨を邪魔するすべてのものに対して勝利を得ます。この十四万四千人は勝利者です。勝利者とは何でしょう?彼らは、神の永遠の御旨の全き啓示の価値及び意義にあずかった人々であり、神の御心に最も近い人々です。これは霊的問題です。
小羊の婚姻
あなたはこれに感銘を受けないでしょうか?もしそれをこの光の中で見ないなら、この書全体に対する鍵を持っているとは私は思いません。この書は孤高であることがわかります。神は、永遠の御旨に関する完全な啓示という光に照らして、すべてを対処されます。次に、これを見る時、私たちはこの書全体で最も中心的な問題――壮大な結果である小羊の婚姻――に至る用意・準備が整います。「また私は、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それは言った、『ハレルヤ、私たちの神である主、全能者が支配されます。私たちは喜び歓喜し、彼に栄光を帰しましょう。小羊の婚姻の時が来て、彼の妻は用意を整えたからです』」。小羊の婚姻が頂点であり、それを超えるものは何もありません。神の御旨は小羊の婚姻によって達成されます。婚姻に関する神の天的御思いは一体化であり、ふたりがひとりとなるほど心と霊と構成が一つになることです。「この奥義は偉大です。私が述べているのはキリストと教会のことです」(エペ五・三二)。それは小羊である彼との一体性、徹底的一体性です。彼女は彼ご自身とのそのような一体性に達しました。彼女は彼のようであり、あらゆる方法で彼に応えます。このような目標が達成される時、天には最高の「ハレルヤ」があります。なぜなら、主はそのためにずっと働き続けてこられたもの――「彼の妻は用意を整えた」――に対して満足されるからです。
どのようにしてでしょう?「彼女は輝く清い細糸の亜麻布の衣を着ることを許された。その細糸の亜麻布の衣は聖徒たちの義なる行いである」(黙一九・八)。これは転嫁された義よりも遥かに進んだものです。転嫁された義はすべての信者のためです。それは信仰による義認を言い換えた句にすぎません。しかし、「聖徒たちの義なる行い」――これは性格に関するものであり、変容に関するものであり、内側に造り込まれたもの、生活における義の実際面に関するものです。それは彼のかたちへの同形化です。これが花嫁、小羊の妻であり、主がそれを獲得される時、主は満足されます。主は全く満足され、天全体も満足します。
小羊に対する花嫁の愛
すでに述べたように、別の場所にいる諸々の別の団体の、この中心・核心に対する近さは様々です。ある群れは一番近く、別の群れはそれほど近くなく、また別の群れはさらに遠くにあります。これはみな、小羊であるキリストの度量の問題です。もちろん、これは真実を述べたにすぎません。しかし、この区別は無作為ではないことに注意して下さい。「神はそうなるよう主権的に定められたのであり、もしこの十四万四千人の群れに属するようあなたが定められているなら、そう定められているがゆえにあなたはそうなるのであり、また、もしあなたがそのように定められていないなら、努力しても無駄であって――決してそうならない」ということではありません。決してそういうことではありません。小羊とその花嫁の問題は、全く愛の問題です。それは一二章に対応しています。一二章には大きな赤い龍、女と男の子とが登場しますが、男の子は天に引き上げられて、「彼らは小羊の血のゆえに、彼らの証しの言葉のゆえに、彼に打ち勝った。彼らは死に至るまで自分の命を愛さなかった」という偉大な宣言がなされます。彼らは死に至るまで自分自身の魂を愛しませんでした。彼のために彼らは死に至るまで自分自身の魂を愛しませんでした。これは愛の問題です。そして、愛を強いることはできないこと、愛を強制することはできないこと、愛をそっとしておかなければならないこと、もしそれが愛でないならそれについて何もできないことがわかります。しかしもしそれが愛なら、それは自発的であって、最後まで進み通します。それは愛の問題です。それはここでも同じです。花嫁――これはまさに全く主に対する愛の問題であり、この愛が私たちをどこまで連れて行くのか、主に対するこの愛がどれほど強くて深いのか、私たちが彼にしたがっていくかどうかの問題です。それは愛、強いられたものではない自発的な愛、私たちの主に対する自発的愛の大きさによります。この愛は自分を忘れ、自己を否み、自己を明け渡し、自己に属するものを彼のためにすべて放棄します。
これは私たちが新たに直面すべき問題であると感じないでしょうか?私たちは物事を、それが自分に及ぼす影響に照らして評価してばかりいます。状況や環境が自分や自分の権益に及ぼす影響に私たちはあまりにもとらわれています。これは確かに、私たちの問題のすべてではないにせよ、そのほとんどの根本的原因です。私たちはあまりにも地にとらわれており、時間にとらわれています。私たちにとってはこの生活が重要であり、この世が重要です。天と永遠はこの世ほど現実的ではありません。天的ビジョンと天的感覚を得られてさえいれば!次の事実が私たちを実際にとらえられてさえいれば。すなわち、永遠は現実なのです。また、永遠と天では地上と同じようにすべてが現実的であり、遥かに現実的であって、それは今でも霊の事柄は一時的な事柄よりも現実的なものになりうるのと同じことなのです。もし私たちがこの感覚を得られてさえいれば、手放す覚悟がもっとよくできていたのではないでしょうか?――地上で私たちが大いに大事に思っているものを手放す覚悟がもっとよくできていたのではないでしょうか?私たちはこれらのものを手放す覚悟をもっとするべきではないでしょうか?結局のところ、これは主との心の関係の問題であり、主は私たちをそこにもたらそうとして常に働いておられます。私たちが出くわす争いや戦いはみな、私たちがそれを正しく認識するなら、実際には一つの問題の周囲を巡っています。万事のまさに核心に、主に対する愛というこの問題、私たちは主と共に進む気があるのかというこの問題があります。それはこういうことです。
すでに述べましたが、これは黙示録が示す新たな問題ではありません。聖書の他の書の裏付けがあり、特にパウロの数々の手紙という裏付けがあります。最終的にそれは、パウロの数々の手紙の中に啓示されている永遠の過去からの神の決議・御旨が達成される問題です。次に、エペソ人への手紙の最初の数章でこれらの事柄を啓示した後、また、私たちをそこに連れ戻してこの選民に関する神の御旨の偉大さを私たちに示した後、パウロは、この最高峰に反するものとしてではなく、むしろ全体の一部として、さらに続けて言います、「あなたたちが召されたその召しにふさわしく歩み、謙虚と柔和の限りを尽くし、忍耐をもって、愛の中で互いに忍びあいなさい」。小羊がここに現れているのではないでしょうか?これは永遠の御旨に関して小羊の道を歩むことではないでしょうか?これは大いに明らかです。「謙虚と柔和の限りを尽くし、忍耐をもって、愛の中で互いに忍びあいなさい」。
さて、この三つの楽章がわかったでしょうか?エペソ書の一、二、三章には御旨の啓示があります。小羊にしたがった歩みがあります。この書の終わりであなたはどこに到達するのでしょう?「夫たちよ、キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、自分の妻を愛しなさい。それはキリストが教会を聖め、言葉による水の洗いによって教会を清めるためであり、またそれは、しみやしわや、そのようなものが何もない栄光の教会を、彼がご自身にささげるためです」。「小羊の婚姻の時が来た」。これは比喩的な言葉で、「神はある群れによってこの御旨を達成された」と述べているにすぎません。この群れは小羊の道を行き、小羊の道を歩み、小羊に従い、今や花嫁として小羊にささげられます。「小羊の婚姻の時が来た」。
そしてこれが、再び言いますが、神がなさる特別な労苦の理由です。「私たちが主を愛せば愛すほど、ますます深いところに主は私たちを連れて行かれるのであり、あなたが主に対してますます絶対的になろうとすればするほど、主はますます絶対的になるようあなたに要求される」と述べると、恐ろしいことのように聞こえるかもしれません。実際はその通りであり、これが事実です。主は、その心が実際にご自身の上に据えられている人々に対して、無限の労力を費やされます。主は彼らを容赦せず、とても深くとても強烈に働かれます。「すべてを主にささげる所存です」と私たちが言う時、主はご自身の機会を獲得されます。しかし、思い違いをしないようにしようではありませんか。主に対する私たちの献身の程度に応じて、主は私たちを問題から解放されるわけではないのです。その反対です。これまでずっと、そうでした。主に最も献身している人が最大の受難者でした。しかし、主は労しておられます。これによって私たちは落胆してはなりません。これによって私たちは多くの解き明かしを受けてしかるべきです。主が実際に私たちを獲得されるなら、主はとても深い働き、徹底的な働きをされるでしょう。そして私たちは、十字架の道、小羊の道に関するただならぬ経験をするでしょう。それはあらゆる点に適用されるでしょう。しかし、その結果――御座に近づくのです。その結果は、神を最も喜ばせ、神の権益に最も役立つものです。なぜならそこから、後で見るように、すべての領域に対する一つの素晴らしい使命が、永遠の世々にわたって成就されるからです。
ただで受けたものはただで与えるべきであり、営利目的で販売してはならない、また、自分のメッセージは一字一句、そのまま転載して欲しいというセオドア・オースティン-スパークスの希望に基づいて、これらの著作物を他の人たちと共有する場合は、著者の考えを尊重して、必ず無償で配布していただき、内容を変更することなく、いっさい料金を受け取ることをせず、また、必ずこの声明も含めてくださるようお願いします。